「考えは考えしか生まない」
師匠は言っていた。 彼女は20代の頃、何も考えずに行動が先なタイプであり、そうとう無駄な動きが多かった。 無駄な動きが多かった。なにも顧みずに今思えば痛い思いもした。 当時は、痛いと思うことさえもなかった。痛いと思う前に次が始まっていたからだ。 あれこれ考える暇も、そしてそんな頭もなかった。 一つ一つ落ち込むこともないから、すべてが笑い飛ばせるジョークが増えた。 やりたいことはすべてやり、自分にとって必要なことだと思ったらどんなことでもやっていた。 誰かに相談する間もなく、もうすでに始まっているタイプで、無謀で損を損とも思わず、 それが例え自分にとって損なことだったとしても、それも一つの経験であり、誰かに役にたったと思えるある意味お幸せな人であった。 そんな彼女にいままでにない衝撃なタイプの人に出逢った。 歩き方も一つにしてもスマートで、動きも効率よく、話し方も落ち着きがあり、 賢くかっこよく、無駄な動きはまったくない。自信満々で冷静沈着であった。 どれだけ今まで頭を使ってこなかったか、、、 どれだけ無駄な動きが多かったか、、、 どれだけ体当たりであったか、、、 彼女は考え始めた。 どうしたらもっと効率よく、どうしたらもっとスマートに、どうしたらもっと慎重かつ賢く生きられるのだろうと、、 すこしは賢くならないと、少しは考えて行動しないと、少しは頭脳派に近づかないと。。 ない頭を駆使して、空回り、すべて逆の結果になるのは今考えれば当たり前。 歌を忘れたカナリアのように、笑いを忘れたアホウドリになっていた。 自分の得意は行動派であった、 それに頭脳も加える一つのきっかけにしかすぎなかったのだが、頭脳派になろうとしたのだ。 今思えば気づく、そのときは必至である。 一つ一つ必至になることは必要だが、ずーと笑えないときには、なにか必至すぎているのだ。 もっとフランクに、もっと楽しく。人生はそんなに難しい構造になっていない。 自分で難しくしているのだ。 頭脳と行動のバランスが必要なのだ。 頭脳が不得手ならば、得意な人に任せればよい。 行動が不得意ならば、得意な人に任せればよい。 人に任せられない人は、自分しか信じれない人かもしれない。 任せることが出来る人は、人を信頼することが出来る人。 信頼するのは、相手を信じ切ることでない。(人を信じ切る人は裏切られた―という発言になる) 信頼した相手、そして信頼した自分を信じ切ることだ。 彼女は、やりたがり、したがり、欲張りだった。 全部自分でできたらいいのだが、それはある意味欲張りである。 そう、彼女は欲張ったのだ。 欲張ったおかげで痛い思いもしたが、少しは考えることもできるようになったのは確かかもしれない。 ただ一旦考えることが身に付くと、今度はそれを消すことが難しくなる。 知らず知らずに考える癖がついていたのだ。 考えは考えしか生まない。 師匠の言葉は、そこにあった。 頭脳派は、いかにスマートに、いかに効率よく、いかにかっこよく。 それは、知らず知らずに自分を守る方向に成り得ることもあり、 それは、しっかりとした考えのもと行動が確固たるものにも成り得る。 行動派は、やりたいことはやる。やればわかる。 それは、ただ「やった」というだけに成り得ることもあり、 それは、しっかりと身に付く体感、発見、充実、次に繋がる糸口にも成り得る。 頭脳と行動がミックスされて経験値が深まるものであり、 頭脳と行動のバランスである。 どんなに頑張っても、どんなに必死になっても、 頭脳と行動、すべて100%とはいかない。 100%以上のものにするには、自分を信じ、相手を信じることである。 考えがあって行動があり、行動があって考えがある。
by atsu_at3
| 2015-04-04 05:00
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